2015年2月2日月曜日

ゲーム依存症親子、因果応報(日曜)

この匿名ブログをはじめて、一週間ほどになる。

一週間くらい経つと、個人が同定されかねない内容が増えてくる。

ブログにおける個人のCharacterがリアルに近づいてくると、段々と自分に都合のいい内容ばかりにして、格好つけようとするのが自分でも分かる。

そこで今日は敢えて、格好悪い? 内容を書く。

実は最近、ゲームにハマっている。

息子がCandy Crashにハマっていたのだが、良くないと思い止めさせようとさたら、自分もハマった。

ミイラ取りがミイラになった。



Candy Crash依存症ではあるが、死んだわけではないので、実際にミイラになったわけではない。

もともと私はこの手のPuzzleやGameが好きなのだ。

2人とか4人とかそれ以上でするGameやSportsも好きだが、一人でできるGame, Puzzleも好きだ。

例えば、テトリスとか。

もっと言えば、小学生の頃から、ファミコンとかパソコンの三国志とかが家にあり、長時間やったり、徹夜したこともあった。

依存症と言えば、ギャンブル、タバコ、アルコール、麻薬、Sexなどのほうが有名だが、Gameにも立派な依存症がある。

ネトゲ廃人とか、2ちゃんねるの住人とか、リア充とか、そういう言葉を聞いたことがあるだろうか。

勿論、私も息子も廃人にはなってはいけないし、リア充でいたい。

しかし、ゲームで手軽に成功体験や達成感を得ることも大事かもしれない。

最も、息子は、Candy Crashを通して、父親と時間を共有したり、コミュニケーションをとることも楽しいようだ。


息子はSportsもしているが、どうもSportsだと、集団の中で、際立った存在ではない。

目立つやつ、上手い奴、活躍する奴は他にいる。

そういう子供たちは、そのSportにもっともっと長い時間を費やしているし、そちらの家庭の事情でそのSportだけに多くの意識と時間を費やしている。

お父さんがFiremanだったりするのだ。

Firemanは、カラダが強くないといけないし、人を助けるというMissionを達成しないといけない。

Team workもとても大事だ。

だから子供にSoccerをやらせる。

ごく自然なことだ。


これが、親が研究者や医者だったら、違う発想、違う育て方をするだろう。

親が弁護士だったら違うだろう。

親がアパートの大家さんだったら、違うだろう。


息子は、Chessやトランプをやりたがることもあるので、一人でやるゲームだけでなく、社交的なゲームも好きなのだ。

これは人として、男としてごく普通のことだ。

Candy Crashに限らず、パズルを解くことで、頭を使う。

限界を越えていく。


四十路の私ですら、徹夜でCandy Crashをやってしまい、いつもとは違う幻想的な夢をみた。

研究という仕事における想像力にとって大いに刺激になるだろう。

だから、一概にゲームだからいけないとは思わない。


数学の問題もパズルであるとすると、Candy Crashと一体どう違うのか?


何も違わない、同じだ、という意見でもいいだろう。


違うとすれば、Candy Crashが天才的に上手いよりも、数学の天才のほうが、社会に認められるし、そのSkillを社会のために活かせることだ。


あとは、数学は学校や塾の先生や親に習わなければ、できるようにはならないだろう。

つまり教育、学問である。

Candy Crashも麻雀も、親が子供に見せなければ、子供はハマることもないだろう。

多分、セックスもそうかな。

しかし、中学生、高校生、大学生くらいになると、友達同士で情報交換するから、そこからいくらでも入ってくるだろう。

でもやはり、家庭でどういう教育を施すか、親が子供にどんな人物になって欲しいと望むかによって、あやゆることは大きく異なってくるだろう。


Candy Crashでは、Blockを3つ、4つ、5つ並べていくことで、先に進めるので、それをゲームにおいて習慣化することは、物(物事)を整理整頓して先に進むこととと似ている。

つまり発達や実社会に役立つ。

しかもCandy Crashでは、全て整理整頓しなくてもいいが、制限時間以内に目標スコアや与えられた目標を達成できないと先に進めない。(昔のゲーム用語では「面をクリアする」といった。今はStageとかLevelのほうが一般的だろう)

どうだろうか、研究と似ていないか?

仕事と似ていないか?


そういえば、仕事と言えば、昔のボスから論文執筆の依頼のメールが届いた。

依頼内容について詳細を尋ねると、文中に「裏技としては、、、」というフレーズがあった。

60歳を超えた教授が「裏ワザ」て。。。

麻雀や競馬をよくやったとは聞いてはいたが。。

やはり、ゲームというのは、世代を超えて共通なんだ。

ゲーム、ギャンブル、実生活、仕事、スポーツ。

どれもルールの中で、目標を達成したり、競争の中を戦っていく。


私は、子供の頃のゲームでは、制限時間や目標なしに、延々とマイペースにやっていたことがあった。

でも高校、大学、それ以降はあまりやらなかった。

麻雀のほうが面白くなったから。

現代のゲームでは、制限時間、目標、ライバルなどが設定され、可能なところに行動を落としこんで、ゲームを先に進める。

これは、仕事において、色々なルールや制約のある中で、可能なところに行動を落としこんで、先に進めることと似ている。

むしろ、社会や仕事で要求されるものの、そう簡単に行かないことが、ゲームの中ではサクサクとできるので、だからみんなハマるのではないか。

でもそのうち、簡単すぎると飽きてしまい、難しいパズル(問題)を解きたくなる。

数学、ゲーム、麻雀、スポーツ、研究、学問、仕事、どれも同じではないか。

異性とのつきやいや家族も同じだろうか?

だから僕は扱いの難しい女性と結婚したのか?

そしてクリアを目指す?

育てる系?

育てられてる?


ところで、今日は日曜だったので、妻に変わって洗濯をした。

洗濯など面倒であったら、家事、育児、料理、買い物で忙しい妻をみていると週末だけならやろうと思う。

我ながら、6年前と比べると、発想も能力も成長したものだ。

洗濯をしていると、息子がズボン、シャツ、靴下を裏返しのままで洗濯カゴに入れていることが気に止まった。

僕も子供の頃に同じことをしていたら、母親から、裏返しを直してから洗濯カゴに入れるように教わった。

僕の母親は専業主婦であったので、洗濯だけでなく、料理、掃除なんでもやっていて、僕の父親も僕ら子どもたちも全く手伝わなかった。

母親にずっと洗濯をしてもらっていたことを今日実感した。

それで今は僕が、家族のために洗濯をしている。

それで思ったのは、

人にやってもらったことは、後で自分が誰かにやってあげることになる

ということだ。

逆もあるだろう。

人に何かをしてあげると、自分に何かが返ってくる。

というやつだ。

仏教における

因果応報

というやつだ。

因果応報って、悪い意味で使うことが多い気がするが、

いい意味での因果応報を意識して大事にしたい。

だから、すぐに見返りを求めなくても、そのうち何らかの形で返ってくる、ということだ。

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